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2022年10月04日 12:35
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新解釈・日本書紀 応神<第57回>
伴野 麓

(71)〝倭〟が入れ替わった・つづき
広開土王碑に、「王躬率水軍 討利残国(王は自ら水軍を率いて利残国を討伐した)」とあり、また「百残王困逼 献出男女生口一千人 細布千匹 帰王(困逼した百残王は男女の生口一千人と細布一千匹を献じて帰順)」とある。そのとき、百残王(温祚百済)は広開土王に「今から永遠に奴客(どきゃく)となります」と誓って許されたが、討伐された利残国は王弟と10臣が捕虜となり、高句麗の都に連行された。その利残国が沸流百済で、百残国が温祚百済である。
広開土王碑は、利残国と百残国を別々の国として認識しているにもかかわらず、日本史学界は同一視してきた。温祚百済として屁理屈と思われるような論述を展開し、倭国が韓半島を支配していた、などの妄論が出てくることになる。
高句麗に敗北した沸流百済(応神)は、捲土重来(けんどちょうらい・敗れた者が、いったん引きさがって勢いを盛り返し、意気込んで来ること)を期して、高句麗と強固に対決し失地回復を願ったが、辰斯王(しんしおう)や阿花王(あくえおう)はその期待に応えられなかった。それが、倭国に対して無礼とか欠礼とかの表現になったのである。沸流百済は、王子の直支(とき・腆支)を人質という形で韓地の温祚百済に送り込み、監視させたと考えられる。それは阿花王の後継者を目論むことでもあっただろう。

(72)「直支王の時に修好した」の意味
日本書紀・応神紀の8年条は、百済記を引用する形で、「王子直支を天朝に遣わして先王の好を修好した」と記している。阿花王が薨じると、応神は直支に「国に帰って位につけ」と命じ、東韓の地を賜った(応神第56回参照)。
三国史記・百済本紀にも阿花王6年(397年)、「王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質にした」とある。397年は応神7年で、「高麗人・百済人・任那人・新羅人等が来朝した」という記事があり、大規模な亡命があったことを暗喩する。この大規模な亡命のときに、韓地の温祚百済に沸流百済の故地が移譲される形になったのだろう。それを「倭国と友好関係が始まった」と表現しているのだ。
三国史記・百済本紀は、直支王を「腆支王」と記し、「太子になったが(阿花王)6年に、倭国に人質として行った。14年(405年)に王が薨じたので、王の2番目の弟・訓解(くんかい)が摂政となって太子の帰国を待ったが、末の弟・磔礼(せつれい)が訓解を殺して、みずから立って王となった。腆支太子は倭国において、訃報を聞いて哭泣しながら帰国することを請うた。倭王は兵士100名を伴わせて護送してくれた。腆支が国の境に達すると、漢城人の解忠(かいちゅう)が来て告げるに『大王がなくなるや王弟の磔礼が兄を殺して、みずから立って王となっているから、願わくは、太子は軽々しく国に入らないで下さい」といった。そこで腆支は留まり、倭人をして護衛させ、海島に依って時を待った。国の人が磔礼を殺し腆支を迎えたので即位した」とある。
「倭兵100人が護送した」との記載は日本書紀・応神紀には書かれていない。倭兵100人とは、倭国(日本列島)から玄界灘を渡って随従した兵士ではなく、東韓の地(韓半島の南部)にあって温祚百済の解忠に率いられた沸流百済の遺民兵士と考えられる。

2022-10-05 6面
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