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2021年11月10日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第22回>
伴野 麓


(31)高句麗・新羅・百済 朝貢の謎

応神28年の秋、高麗の王が使いを送ってきた。その上表文に「高麗の王、日本国に教う」とあったので、太子の菟道わき郎子は、その上表文を読んで怒り、高麗の使者にその無礼を責め、上表文を破り捨てた。
応神28年は世紀417年で、高句麗広開土王の後を継いだ長寿王の5年にあたる。その上表文に、日本国という名称が使用されていることから、三品彰英は「表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実とみなし難い。撰者の造作と見る外はない」と断じている。
応神40年条に菟道稚郎子を太子にしたとあるので、菟道稚郎子が高麗王の上表文を焼き捨てたという応神28年にはまだ太子ではなかったということになる。それで後世、折に触れては「追書」と見なされている。
新羅が三国を統一した668年以前に新羅が朝貢したのは8回で、それ以後は19回。百済が滅ぶ660年以前の百済の朝貢回数は5回で、それ以後は3回。高句麗が滅ぶ668年以前の高麗の朝貢回数は6回で、それ以後は9回とされている。三国を統一した新羅が倭よりも強勢であったと考えられるのに、どうして19回も朝貢する必要があったのか、また新羅に滅ぼされた百済と高句麗が、どうして倭の朝廷に3回あるいは9回も朝貢することができたのかが疑問だ。
各国の使者が一緒に来たという記事もある。新羅・百済・高麗の3国が共に来たのは2回、新羅・百済の使者が共に来たのは3回、新羅・高麗が共に来たのは1回となっているのだが、徒歩の時代に慶州(新羅)・扶余(百済)・平壌(高句麗)にあった使者が、どのようにして同じ日に、同じ時刻に、同じ場所に集まって倭に朝貢できたのか。それら3国の使者は韓半島の3国から遣わされたものではないということだ。すなわち、それら3国は近い距離にあった対馬の邑落国のことを指す。
韓国と日本の正史文献に沸流百済に関する記録がないのは、沸流百済が自らの存在を黒子にしたからと以前に書いた。しかし、沸流百済の存在を示唆するものとして、応神朝に百済120県民が日本に集団亡命したという日本書紀の記事がある。また漢城百済(温祚百済)が忠清南道の熊津(公州)へ南遷(475年)した時、雄略がその地を百済に下賜したという記述がある。一方、三国史記に記す百済の領域は、京畿道を包含した忠清南道と全羅道全体にまたがる。その広域な地域が百済120県民の居住地域であったろうと考えられる。

(32)対馬島の任那国


江上波夫の騎馬民族征服王朝説によれば、大和王朝を樹立した天皇族は元々中国東北地区(旧満州)北部の松花江と嫩江付近に住んでいた騎馬民族だった。その騎馬民族が南下して、一部は高句麗を建国し、一部は韓半島南部に辰王国を建て、その一部は百済に残り、他の一部は伽耶(任那)を根拠として日本列島の征服に乗り出したのだという。そして、対馬・壱岐・筑紫を占領し、数代の後、畿内の河内・摂津に都し、最後に大和地方に入り、土着の豪族と合作して大和朝廷を創始したとしている。

2021-11-10 6面
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